ラケルとぶどうと愛


宮益坂を歩いている時、たいがい食事をとる店はラケルだった。
そこで出されるオリジナルのパンと水とオムレツが好きだった。
テーブルに設置されたボトルの水をグラスに注ぐのも楽しみだったのだ。

数日後、宮益坂の通りにあるファストフード店に近づいた時、そこから
流れ出すある曲に心惹かれてしまった。
その曲は、稲垣潤一の「April」。
前々から、彼のアルバムを何度も聞いていたから遠くからでもその声だと
分かった。
関連する作詞では、本人はもちろんのこと他にも書いている作詞家がいた
が特に秋元康が多かった。
数ある楽曲のなかでも1・2・3という曲が気になった。
なぜかというと、そこからJAL123便墜落事故やひふみ祝詞を思い起こして
しまうからだ。
謎に包まれた衝撃的な事故だったから印象に残っていた。
だが、その店には結局一度も立ち寄ることはなかった。
「April」が流れている時、むしろ足早に駅へと向かってしまったのだ。

その数年後、今度はスペイン坂の界隈で遅めの昼食をとりながらTVに目を
やると、そこには明石家さんまと大竹しのぶの離婚報道が流れていた。
しばらく唖然とした。
周囲を見渡すと、男性も女性もTVに釘づけだったのにも驚いてしまった。
そして、彼は偶然にもJAL123便墜落事故から逃れていた。これも不思議だった。

あの小粒で甘酸っぱいデラウェアのぶどうは、この日本でよく流通してる。
旬の時期になると、お店に並んでるのを見かけるが、皮がやわらかくて
食べやすいから、ついつい止まらなくなってしまうのだった。

-あとがき-
歌詞を読み返してみると「April」では異性への熱が冷めて恋が終わってしまったり「1・2・3」では人に傷つけられて孤独を感じてしまう場面が見受けられます。

例えば、大恋愛を経験したり、有名人のビックカップルが結婚したとしてもそこに永遠性はなく人間の愛には限界があることに気が付きます。

このように人間の愛というのは、儚いものです。いつかは、失われます。

どんなに異性や大金を手に入れたとしても真の愛を掴むことは不可能だからです。

人々の心が満たされず、絶えず怒りの感情を抱きイライラしている時、やはりそこには愛は存在していません。

幼な心に、親や兄弟を見ながら人間には真の愛は存在しないのだと痛感してしまったのですが、これは友達や同僚に対しても同じでした。

親からもまともに愛が得られず、友達を求め、異性を求めてもどこにも存在していなかったのです。

もちろん、なかには思いやりのある人もいることでしょう。

しかし、親が争いあったり、自分が人を傷つけたりまた異性に傷つけられたり、会社などで嫌がらせされるのであれば、人はやはり嫌悪感を抱くしかありません。

恋人や友達や同僚にしても、誰かが必ず辛い思いをしてしまったり、悪者扱いされてしまう。それではやはり苦しいだけです。

2018年 7月19日

天城越えと浄蓮寺。


社交的で物怖じしない白い肌に栗色のショートヘアのM。
細身で手元の指輪が輝いて見えた友達思いのK。
丸味を帯びた目元と頬や口元からほのかな温かみさえ感じるY。
皆独身だが、Kだけはすぐに結婚しそうな予感がした。
女が複数集まれば、ある種の嫉妬心やら争いが起こりそうなものだが決し
てそんなことはなかった。
互いに車を出し合っては、よく仕事の合間にドライブに出かけたものだ。
車を持ってた私は、彼女達の足になっていたのも事実だった。
時に澄んだ青空の下、太陽の光を眩しいくらいに浴びて湾岸沿いの道を
走り続けることもあった。
どこか行きたい所を提案した時も大抵いい返事がかえってきた。
表立って彼女達に否定されることはなかったのだ。
だから、ある意味気楽だった。
でも本心では彼女達から嫌悪されていたのかも知れないけど…。
あくる夜、彼女達から地元のカラオケに誘われた。
まるでコンテナのような形状をした色鮮やかな印象のカラオケBOXだった。
それほど待たずして部屋に入り、メニューを片手に一通り目を通したあと
軽食やソフトドリンクなどを決め、Mがフロントに電話を入れる。
その間クーラーの温度設定や照明の明暗を調整し、分厚い本を膝に抱え
選曲予約を入れていくのだった。
中でも印象的だったのが、Yが歌う石川さゆりの「天城越え」だった。
実際、この曲は一度聞くと忘れられないくらいインパクトがある。
聞いてる者までもが、その妖艶で念のような女の情感を受けてしまう。
「浄蓮の滝」や「山が燃える」の歌詞からも強烈な何かを感じた。

当時の事を思い浮かべながら、今回ブログを書いてみました。

ただカラオケへはもう行かないほうがいいと思いました。

伊豆や静岡へは車で一度、その約十年後に踊り子号で訪れたことがあります。観光地ですが、もしかして特別な土地なのではないかと感じました。

例えば、天城山でも不可解な心中事件が起こっています。

大学生の大久保武道(当時20歳)と、同級生の愛新覚羅慧生(あいしんかくらえいせい当時19歳)が、拳銃で頭部を撃ち死体が見つかっています。1957年12月10日。

今はないですが「浄蓮の滝」のそばに浄蓮寺が建っていたようですし。可能性としては、浄土宗か真言宗ではなかろうかと推測しますが…。

真言宗の火まつりや五山送り火を彷彿させるのが「山が燃える」の歌詞です。そして、ゾロアスター教の火を通してアフラ・マツダを崇めているシーンを思い出します。

そしてあるお店に入った時、内装やそこに飾られたものが全体的にオリエンタル調でエキゾチックだったのですが、これこそペルシャ風でソロアスター的だったのだと後々気が付いたのでした。

2018年 7月17日

真夏の昼下がりの三日間とモレク。

それは、1986年の8月の出来事だったと思う。
2016年に一度は書いたが、削除した記事を今日書いてみようと思う。
1985年の春、その部に入部した。
自分で選択し好きで入ったにも関わらず、夏場の部活動はあまり良いものではなかった。
イヤ、きっと好きで入ったと思い込むようにしていたのだろう。
本心は…といえば、二つの部のうちどちらにするか選択に迷いを感じていたころ、勧誘して
きたある一人の女の先輩がとても印象的で驚いてしまう。
艶やかでサラサラとした短めの髪型と黒色の瞳、小麦色に日焼けし引き締まった姿の先輩が
頭から離れなくなってしまった。自分とは正反対だったのだ。
美しい瞳を持つその先輩に強力に惹かれてしまった。
憧れに近い感情だった。とても魅力を感じたのだ。
しかも、たった二歳ほどしか変わらないその先輩が、かなり大人に見えた。
まるで暗い感覚から解放してくれるようなある種の救世主にさえ見えたのだ。
それで最終的にその部活に決めてしまった。
その前にも二つほど数日間それぞれ仮入部したのだが、残念ながらあまりいい印象はなかった。
失礼かもしれないが、そこで魅力を感じる人も誰一人いなかった。
しかし、その部に誘ってくれた友達だけは光っていた。
色白だけど肩や体が丈夫でしっかりしている様子が感じられ、笑顔が素敵な子だった。
当然、彼女は異性からも同性からも人気を獲得していた。
ある一人の男子から強烈に愛されていたことも知っている。
1985年はそんな感じで過ぎていった。

1986年の夏、暑い中どんなに努力しても報われず、ただただ焦りと疲弊の毎日を繰り返し、早く
この暑さが過ぎ去ればいいのにと心の中で想いにふけていった。
でも、本当はその出来事が決して無駄な出来事ではなくむしろ貴重な出来事だったのだと数十年
たってからようやく理解することができたのだが。
このことがなければ、こうしてパソコンに向かって過去の出来事を文章化して打ち込むことも
出来なかったからだ。
その夏、午前中はいつも通り部活に励み、伯母さんの家で昼食をとった後、いつも寝起きしていた
叔父さんの家に移動し、気が付けば布団の上で眠りに落ちていた。
その部屋は、午後になると西日が差し込み、ブラインドを外側に傾けても無風に近いため非常に
蒸し暑く、不快さと肉体疲労のためとても起きていられるものではなかったのだ。
そんな苦痛の中、無意識のうちに引き起こされたのは、金縛りだった。
しかも、三日間立て続けに起きたのだ。想像を絶するほど執拗に。
どの日も真夏の昼下がりに家で疲れきって一人で寝てる時に起こったのだ。
はっきり覚えているのは、三日目の昼下がりだけは強く怒りを発したことだった。
しかし、一日目や二日目の昼下がりは、意味も分からずどうすることも出来なかった。
それは、明らかに自分の命を今にも奪おうとしている存在だった。それも霊的な存在だ。
何故か分からないが、そこから強烈な憎しみと恨みを感じた。
まるで女の強烈な嫉妬心がさらに膨らんで今にも爆発しそうな様子だったのだ。
何度か全身の力を振り絞って体を揺り動かして抵抗しようと試みたが、縄で全身を締められている
ようで身動きがとれなかった。
自分よりも力の強い霊的な存在が、仰向けになって無防備に寝ていた体にしがみつき、上から圧迫
されどうすることも出来なかったのだ。
そして、最終的には首を絞められた。その瞬間物凄い殺意を感じたのだ。
このままでは命が奪われるかと思い、100%力を込めて追い出そうと決心し怒鳴った。
すると、三日間私を奪おうとした老婆の霊はとうとう私の体から離れ去り消え入ってしまった。
何処から来て何処へいったのかは分からなかった。
それと似たような経験を2016年の10月の夜にも経験していくのだった。

-あとがき-
上記の出来事が後々になって気になりだし、数年後に金縛りについて何度か調べたのですが
本当に納得する答えに辿りつくことはありませんでした。

生きていると、知らず知らずのうちに人を傷つけたり、恨まれたり、嫉妬されたりすることも
あることでしょう。

しかし、そういった感情が人間からではなく、霊から体感したんですよね。それをはっきりと。

人間が住んでいる地上界以外にも天や地獄という霊界が存在してるということが分かった時、納得
できたんですよね。

モレクは人身御供の悪魔といわれていて、世界中でも人身御供が存在しており、日本でも神
(サタン)に人柱や石の蔵などを生贄として捧げてきた歴史があるといわれているのです。
人身御供関連 月のピラミッドの生贄とコカ・コーラの発案者

2018年 7月13日

離婚率の増加や家族間の犯罪について。

総務省統計局のデータによると、日本の人口は2018年(平成30年)6月1日現在、1億2652万人といわれており、減少傾向にあります。

2000年から2008年の離婚件数では、おおよそ20万組もの夫婦が協議離婚や裁判などを経て離婚していると考えられ、上昇の一途を辿っています。(厚生労働省の離婚件数による)

この離婚率はどういうことを示しているのでしょうか。

本来人間は愛を求めて恋愛・結婚をします。しかしそこには愛が存在していないため本当の平和を感じることが出来ないのです。

例えば結婚記念日や誕生日など二人で甘い時間を過ごそうとしてもだんだんと義務的、重荷にすら感じてしまう人も少なくないのではないでしょうか。

一体どうすれば夫婦仲が良くなるのかとあれこれ模索しても上手くいくことはまれで、関係がこじれてしまう場合もあるのです。

人によっては、丹念に目元を強調したメイクでイメージを変えたり、香水を手首や耳元につけて印象づけたり、女性らしさに溢れたファッションで外見を装ったりもします。

しかし、どんなに努力しても出会ったころの熱い思いやときめきを取り戻せず、思うように男性を操作しようとしても出来ずに徐々にむなしさを感じてしまいます。

挙句の果てには、怒りや憎しみ、嫌悪感や倦怠感すら抱き始めることも無きにしも非ずなのです。

場合によっては他の異性に恋心を抱き、その満たされない思いを満たそうとしてじわじわと浮気や不倫に走って溺れてしまうケースも。

男性は、基本的には名誉やお金を本能的に追い求めて生きています。

そのため、妻から愛を求められても思うように愛せず理解に苦しみどう扱っていいか分からなくなってしまうのです。

妻は妻で夫から思うように愛を得られず、物足りなさを感じてしまうので、夫婦間には愛の温度差が生じ、反発や亀裂が生じます。

女性は愛されていないと生きていけず、そんな夫を見ては自分は愛されていない、駄目だといっては劣等感を感じ、いじけたりします。

猜疑心や嫉妬心を抱いたり、または夫に対して徐々に不満や不平をこぼすようになっていくのです。

男と女が一生かけて深い愛を成すことは本当に難しく、男女が互いに愛し合い持続させることは不可能に近いからです。

昔は、女性も専業主婦だったり姑と同居して二世帯で暮らしたりと、家にいることが当たり前で、例え姑や夫に不満を感じていても、死ぬまで我慢して一生を送る人も多かったことでしょう。

しかし、現代では核家族化や少子化が進み、そういった面倒なしがらみに縛られることがなくなったこともあって、簡単に離婚できるようになったことも事実です。

また現代人は、親からまともに愛されてこなかったり、親自身も親から愛されておらず離婚に至ってしまう点もあるのだと思います。

例えば、ニュースを見ていても家族間で傷つけあったり憎しみあったり虐待したりして、家族で争いあっているケースも少なくありません。

最近は、親が子どもに対して友達のように接してコミュニケーションをとっていたり、子どもをペット化して育てている親も増えています。

なかには自分のストレスを子どもにぶつけ、しつけと称しては激しい怒りで攻め立てたり怖がらせたりする父親や母親もいることでしょう。

これらの多くは、愛を知らずに生きてきて、愛が存在していることを心から信じられないことも一つの要因なんだと思います。

そして世の中のほとんどが、家族愛、異性の愛、友人愛こそが人間にとっての最大の幸せだと語ってますが、そこからは本当の平和は得られないのです

それでも、中には家族愛、異性の愛、友人愛で幸せを感じている人もいるかも知れません。

一方で愛が冷え切っているのを表すかのように、今家族間での犯罪がニュースで取り沙汰されています。

心が満たされて愛に満たされている時、人は誰かの存在を脅かしたり、家族間で犯罪を犯すこともなく平和に生きられます。

現代は戦争や暴力こそ表立ってやることは少なくなりましたが、心に不安や憎しみ、嫉妬心を知らず知らず抱えて生きている人が少なくありません。

心を間違った方向に使うとやはり苦しみを感じてしまうからです。

喜びや希望を抱くことはおろか、精神病を患ったり、人によっては肉体が病気になってしまったり、場合によっては仕事や家族をも失ってしまうこともあるのかも知れません。

そして、世の中のありとあらゆる情報は愛の様な目に見えないものよりも、目に見える物を手に入れることこそ幸せだと洗脳されているのです。

2018年 7月12日

Under the wheelをもう一度。


夏の長期休暇中に手に取った本、それは「車輪の下」だった。
そして今年2018年の1月、再び手に取ると当時見えなかったことが見えるようになった。
主人公のハンスは、最後自死してしまう。日本の著名作家の文脈と同様の結末だった。
ハンスとハイルナーの「ゲイ」に似た関係が、夏目漱石の「こころ」のKと酷似している。
その後自殺。Kというイニシャルもとても意味深だ。
夏目漱石は名前の通り、目と石がフリーメイソンである。
また、ヘルマン・ヘッセの「デミアン」は秘密結社のことが書かれていると言われている。

「車輪の下」の登場人物が不慮の死を遂げ自殺に追い込まれる点も、村上春樹の作風を感じさせた。
実は1989年、村上春樹の「ノルウェイの森」を友人から進められ借りたことがある。
その友人の家にいくとそこはなんとお寺だった。お寺の娘だったのだ。
宗派は違ったが、村上春樹の祖先も「光明寺」というお寺を運営している。
そして「ノルウェイの森」は、異性の愛だったがやはり二人自殺しているのだ。
クリスマスカラーの装丁からも「ドルイド」を連想した。
「車輪の下」のハンスも最初のころは、神様の存在や魂のゆくえや悪魔のことを考えていた。
しかし、マウルブロンの神学校の試験合格に向けて勉学に励むうちに、その良心が失われていく。
マウルブロンの神学校を調べると、やはり「ドルイド」だった。
後にハンスは、新約聖書を牧師から習うが、次第に誇り、焦り、自尊心が増し加わっていった。
牧師は復活を信じていなかった。ハンスの為に祈ることもしていなかった。
聖書批判ばかりでラテン語やギリシャ語を熱心に教えていたのだ。
日本の詰め込み教育と同様だ。
ヘルマン・ヘッセの祖国のドイツと日本は、離れているが実はとても密接な関係だ。
実は幼い頃何故か「ゲルマン」や「ゲシュタポ」という言語を耳にしていた。
現代もマスコミがヒトラーをテーマにしている度に不思議だった。
実際、ドイツパンの店も見かけるようになった。そこで扱ってるライ麦パンは、砂糖やバターや卵を使用していない。ヴィーガン向けだ。
ヴィーガンやベジタリアンは有名人、イルミナティに多い。
伝説のスター、リヴァー・フェニックスもヴィーガンだった。
彼の名前は、ヘルマン・ヘッセの「シッダールタ」の川にちなんで名付けられたのだ。
フェニックスも悪魔崇拝に繋がり、親もカルトの活動家で彼はそこで苦しんでいた。
話を戻して、そんなハンスも休暇の時だけは癒されていた。自然に癒されていたのだ。
しかし、それも続かなかった。
靴屋のフライクだけは、ハンスの為に祈っていた。試験の当日、祈っていたのだ。
普段から牧師の所にいくハンスを見ては、ため息をついていた。
おそらく牧師は聖書は偽物で嘘を書いているというだろうとハンスに伝えていたのだ。
聖書は人間が書いたものとか、聖霊を感じないといったら私の所にきなさいと。
新約聖書を読んだあかつきには、神様を信じなくなるとも警告。
神学校で一緒だったヒンディンガーも、池でおぼれ死んでしまう。
結局「車輪の下」でも二人の命が奪われてしまったのだ。

終わりに…。

車輪は、サンスクリット語でチャクラを表します。スピリチュアルの思想に繋がります。

スピリチュアル関連 セレスティン予言への誘い。
関連 インディアンとペヨーテの儀式。

人間は、たとえ異性愛、家族愛、友人愛を求めて掴んだとしても満たされることはありません。

最初は新鮮で楽しめても、色あせて長くは続かない。むしろ、苦痛にすら感じてしまう。

人間は愛が欠落してるし、相手が本当に守ってくれるわけでもない。傷つけあうことも多く虚しいのです。

2018年 7月 4日

マスコミ離れと夏の憂鬱。

今まで夢中になっていたマスコミなどの情報機関とは、一体何だったのだろうと思い返してみました。

保育園児の頃や小学生時代は、夕方放映していたTVアニメを見て苦しめられてる少女や対象を目にしていました。

みなしごとか、母親がいない物語のアニメを見ていたことも。

主人公が幸せを感じていると、とにかく悪人が現れ邪魔され争いが始まるという図式がほとんどだったんですよね。

そして、改めて考えてみるとあの時は将来のことをアニメを通して先読みしてたんだなとも感じられました。

また、シンデレラという絵本を親に買って貰ったのですが、よくよく考えてみると将来王子様に出会って素敵なドレスを着てそんな人と結婚できたらなと甘い幻想を抱くように洗脳されていたんですよね。

でも、やっぱり意地悪な人が出てくる。これでもかというくらい不幸になるのが当たり前だったわけです。

こういう類の物ばかりに触れるのは、やはり人間にとって悪影響なのではないでしょうか。

その後は、漫才やお笑いブームにつられ、学校にいっては友達の前で物まねをしては笑いをとっていたのですが・・・。

だんだんと、笑いをとるどころか、もうこんなことしたくないなと感じるようになっていったんですよね。

それからは、TVアニメも見なくなり、時代劇を少し見たり、歌番組やFMラジオのカウントダウンなどに流れていきました。

そういう陰湿で暗いのを目にすることから次第に離れ、中学校時代は音楽に魅了され、音楽を通じて友達と仲良くなっていくことも増えていきました。

ただ夏休み中だけは、とても憂鬱でした。日本の蒸し暑さが苦手だったんです。その時は、何でそんなに憂鬱なのか分からなかったんですよね。

例えば水泳のクラブでは、特訓をし嫌々やっていたので最終的には大会にも出ず、好きで入った部活動も暑い中、水も一滴も飲めずに、鼻血をだし苦しみを感じていました。

でも、夏の憂鬱な気分が単にクラブや部活動中の苦痛や気候的なものから引き起こされていただけではなかったんだと今は思えるんですよね。

現実的に8月というのは本当に不可解な出来事が次々と引き起こされています。

8月6日の広島の原爆や8月9日の長崎の原爆もそうですし、8月12日のJAL123便の墜落事故(事件)など。

今の時代、原爆も原発も存在しないということが、分かったわけですから。

マスコミ関連記事 黒のサマーバックと顔が描かれた赤い壺と海猿

この世には霊界というものが存在していて、霊やサタンが実際に存在していて、霊やサタンから悪影響を多大に受けていたからだったんだと。今は思えるんです。

2018年 6月 4日

心が苦しい時に祈り続ける。

以前、二人の人に苦しめられ、相手に訴えてもどうすることも出来ず、その事について神様に祈っていた時期がありました。

関連 屈辱さえ吹き飛ばしてしまう

その後、それとはまた別で周囲から苦しめられることが度々あり、その事は以前よりももっと長い間祈り続けていたことがありました。

ある時、周囲がバタバタし始め、何かあったのかな?どうしたんだろうと感じ、そんな矢先、そのうちの一人の人が離れていくことがありました。

この問題については、無理をして自分から何かアクションを起こさない限り解決できないだろうなとずっと思っていたんです。

しかし、他の人からも苦痛を受けていたので、完全にはすっきりせず心のうちは、モヤモヤしてたままでした。

その三か月後、皆が離れて行きました。すると本当に平安だと感じるようになったんです。心の状態が以前とは全く違いました。

もちろん、全ての問題が解決したというのではなく、今も気になることは抱えていますし、これからも色々出てくるとは思っています。

それでも、このように人にはいいづらく、人からは見えにくいことも神様に祈りを捧げ、心の内を明かせることをありがたく感じました。

また、断食をした後に食事をとり飲み物を飲んだ時、やっぱり神様が与えてくださる食材や食べ物は美味しいし、ありがたいと感謝に変わることが増えていきました。

祈りも最初のころは、自分の祈りばかりでしたが、大きな祈りこそ大切なのかと感じ、この世界が神様の愛の世界に変わっていくよう祈っています。

今は分からないことでも、見えない神様に祈りを捧げることは、壮大でロマンあふれる時間を過ごしていたんだと後になって気づくのかもしれないと感じました。

2018年 5月25日

ある道でみた光景。

12月に入り、ぐんと肌寒さが身に染みた頃、太陽の温かさや有りがたさを痛いほど感じる事がありました。その暖かな光が、とても心地よかったんですよね。

夜になって冬空に浮かんだ満月を見た時、そこからはっきりとした輝きや存在感を感じ、ああ綺麗だなと感動しました。

太陽や月、大空に囲まれて生きていることがありがたく嬉しく思えてきました。

あなたは、包容力があるタイプですねといった表現を人に対していうことがありますが、神様ほど包容力がある存在は、他にないのではと感じています。

包容力という言葉自体、とても安心感を抱きます。本当の愛とは、厳しいけれども包み込んで下さるものかなと思えてきたんですよね。

人間の包容力とは、比べ物にならないほど偉大なレベルなのではと感じられました。

先日、ある道にさしかかった時、三種類の鳥に出会いました。

その中で一番小さい鳥だったのが、すずめでした。こじんまりとしていて、丸味ががった姿でトントン飛び跳ねては、ちゅんちゅん鳴いていました。

中ぐらいの鳥もいました。そして、一番大きい鳥がカラスでした。どっしりと構えていて、カラスだけは逃げる様子はありませんでした。

同じ鳥でもこんなにも性質が違って、姿かたちや色合いが違うのだなと感じました。これは、人間も同じなんだなと。皆それぞれ違うんですよね。

それぞれ個性や才能があって、それぞれ違いがあって存在しているのだと感じました。

周囲を見渡すと数え切れない万物に囲まれ、それらを創造してくださった神様に感謝したいと感じました。

2017年12月05日19:00

目の前にあるものを変えてみる。

先日、身近なものに目が行き届いていなかったことに気付き、買い替えたいと強く切望する出来事がありました。

それは、毎日使っていたマグカップでした。ディズニーのデザインでした。「星に願いを」という歌詞を読むとその本質が伝わってきます。

関連記事 あの頃は、月、木、星に願っていた

同じく時計もでした。それらのものをシンプルな物に変えてみたいと思えたんですよね。

今まで囲まれていたあらゆる物は、色もデザインもにぎやかだけど雑然としていたのだと感じました。カラフルなもの、柄物、キャラクターに囲まれていたんですよね。

生活に追われ、家事が苦痛となり汚れにも鈍感になっていき、自然と掃除も怠り食生活も乱れていっていました。

そんな中、神様に出会い賛美歌に出会い、人間にとって害になるものを避け、良い考えを取り入れるようになれたことはありがたいことでした。

家事を嫌々やるのではなく、やった後に心からすっきり出来て、結果的にやって良かったと思えたんですよね。

祝祭の日にレストランで見た白く輝く食器が、ふと頭に浮かんできて自分もあんな風に清潔な心の状態になりたいと憧れの思いを抱きました。

関連記事 あの日印象に残った世界

真っ白なお皿に、色とりどりの食材が並んでいたのですが、お皿も食材も互いに引きたてられていたのを思い出したんですよね。それが、本来の世界だったのかと。

実際、白い食器はケーキ皿しか持っていなかったんですよね。今回白いマグカップが欲しくなり、お店で物色してたのですが、底のほこりが気になって断念しました。

その代わりに白に近いベージュ色で、周り全体を削っている型のマグカップを見つけ購入しました。

その次の店でも、白のマグカップを見つけましたが、やはり底の汚れが気になりました。これは、自分の心の状態を表しているのだと思えました。もっと心を清めていきたいと。

賛美歌は本当に素晴らしいです。理由が分からずに辛い時、苦しい時は、賛美歌や聖書に触れてみて下さい。

2017年11月23日18:00

あの日印象に残った世界。

その日の午前中は、予想していたよりも曇り空で冷たい空気を感じたので、上着を薄手のものにするか厚手のものにするか迷っていました。

こういう時、心の状態は隠せないと感じました。マタイの福音書に書かれている思い悩むなという聖句を思い出しました。

普段と違う服装や靴を身にまとい、出発しました。曇が広がった空から次第に太陽の光が差し込んできました。徐々に輝きが増し加わっていき、強い太陽光線を体に感じ驚きました。

澄んだ青空と11月とは思えないほどのダイナミックな太陽の光を浴び、その日は神様とのお祝いの日だったのでもしかして熱い熱情の神様の感覚を感じていたのかなとも思えました。

青空や雲や太陽から物凄い存在感を感じました。空ってこんなにパワフルで壮大で美しかったのだと。なんて綺麗なんだろうと感動しました。

目に広がる世界が、いつも一層カラフルに感じました。ある道から庭先にかけて、白い蝶が追いかけっこしているのを見かけ、その様子を見ては涙を落としました。

白い蝶をとても愛おしく感じたんですよね。以前、春先のキャベツ畑で同じような光景を何度か見たことありましたが、そういう感情はありませんでした。

気が付けば、その場から動けなくなっていました。もし、また同じ場所にいったとしてもそんな感動は起こらないのではないかと思えてきました。

聖書を感じさせるお店でランチをいただきました。建物や内装も明るく、食事をしている人たちも乱れた感じもなく、木漏れ日から指す光と店内の温かさが心地よかったです。

その後は、その界隈を散策し樹木の葉の様々な色の違いや地面の白さ、黄味や赤味ががった落ち葉を見ては、魅了されていきました。

色とりどりの花やコスモスにも出会い、神様が創造してくださった沢山の美しいものをありがたく感じました。

薄手のコートを羽織っていた夕方の帰り道、北風の強風に吹かれ寒さと神様の威力を感じ、自分の小ささを痛いほど感じ、賛美歌にすがりたくなり何曲も口ずさんでいました。

神様RAPTさん賛美歌がなくてはならない存在であり、出逢えてよかった。素晴らしいと感じました。

2017年11月13日19:00