ラケルとぶどう園のたとえ


宮益坂を歩いている時、たいがい食事をとる店はラケルだった。
そこで出されるオリジナルのパンと水とオムレツが好きだった。
テーブルに設置されたボトルの水をグラスに注ぐのも楽しみだったのだ。
当時は「ラケル」という意味が分からなかった。
今であれば旧約聖書のレアの妹「ラケル」を彷彿する。綺麗な女性だ。

数日後、宮益坂の通りにあるファストフード店に近づいた時、そこから
流れ出すある曲に心惹かれてしまった。
その曲は、稲垣潤一の「April」。
前々から、彼のアルバムを何度も聞いていたから遠くからでもその声だと
分かった。
関連する作詞では、本人はもちろんのこと他にも書いている作詞家がいた
が特に秋元康が多かった。
数ある楽曲のなかでも1・2・3という曲が気になった。
なぜかというと、そこからJAL123便墜落事故やひふみ祝詞を思い起こして
しまうからだ。
謎に包まれた衝撃的な事故だったから印象に残っていた。
だが、その店には結局一度も立ち寄ることはなかった。
「April」が流れている時、むしろ足早に駅へと向かってしまったのだ。

その数年後、今度はスペイン坂の界隈で遅めの昼食をとりながらTVに目を
やると、そこには明石家さんまと大竹しのぶの離婚報道が流れていた。
しばらく唖然とした。
周囲を見渡すと、男性も女性もTVに釘づけだったのにも驚いてしまった。
そして、彼は偶然にもJAL123便墜落事故から逃れていた。これも不思議だった。

大分前だが、TVの時代劇で日本刀を振りかざして人を斬っている武士や
将軍を見た。
新約聖書ルカによる福音書20章9-16章「ぶどう園と農夫のたとえ」で
農夫たちが僕たちの命を奪おうと企むシーンがある。
そして、最終的には主人までもが農夫の命を奪おうと企んでしまう・・・。
日本刀を振りかざして人を斬っていた武士と、ぶどう園の農夫や主人の
やっていたことが何ら変わらなかったのだと感じてしまった。

-あとがき-
歌詞を読み返してみると「April」では異性への熱が冷めて恋が終わってしまったり「1・2・3」では人に傷つけられて孤独を感じてしまう場面が見受けられます。

例えば、大恋愛を経験したり、有名人のビックカップルが結婚したとしてもそこに永遠性はなく人間の愛には限界があることに気が付きます。

ルカの福音書の「ぶどう園と農夫のたとえ」の農夫や主人、また時代劇の武士や将軍の場合、自分たちの私利私欲や権力のため、傷つけあい暴力をふるい時には人の命さえも奪ってしまうのですから。

このように人間の愛というのは、儚いものです。いつかは、失われます。

それは、真の愛を与えられるのは神様ただ一人だからです。神様からでしか得ることが出来ないからなのです。

どんなに異性や大金を手に入れたとしても真の愛を掴むことは不可能だからです。

人々の心が満たされず、絶えず怒りの感情を抱きイライラしている時、やはりそこには愛は存在していません。

幼な心に、親や兄弟を見ながら人間には真の愛は存在しないのだと痛感してしまったのですが、これは友達や同僚に対しても同じでした。

親からもまともに愛が得られず、友達を求め、異性を求めてもどこにも存在していなかったのです。

もちろん、なかには思いやりのある人もいることでしょう。

しかし、親が争いあったり、自分が人を傷つけたりまた異性に傷つけられたり、会社などで嫌がらせされるのであれば、人はやはり嫌悪感を抱くしかありません。

恋人や友達や同僚にしても、誰かが必ず辛い思いをしてしまったり、悪者扱いされてしまう。それではやはり苦しいだけです。

人は人を真に愛せず、心の奥で憎しみや怒りを知らず知らずに抱えて生きているため、そういう関係が生じてしまうのです。

2018年 7月19日

真夏の昼下がりの三日間とモレク。

それは、1986年の8月の出来事だったと思う。
2016年に一度は書いたが、削除した記事を今日書いてみようと思う。
その頃の自分を回想するだけで憂鬱になるほど、当時の状況や出来事がとても嫌だった。
1985年の春、その部に入部した。
自分で選択し好きで入ったにも関わらず、夏場の部活動は本当に酷でしかなかった。
イヤ、きっと好きで入ったと思い込むようにしていたのだろう。
自分から湧き上がってきた感情をただひたすら耐えるということを何年も訓練されてきたから、
都合が悪いことは自然と自分の中にしまい込む癖がついていたのだ。
つまり、本来の自分ではなかった。偽りの自分だったのだ。
本心は…といえば、二つの部のうちどちらにするか選択に迷いを感じていたころ、勧誘して
きたある一人の女の先輩がとても印象的で驚いてしまう。
艶やかでサラサラとした短めの髪型と黒色の瞳、小麦色に日焼けし引き締まった姿の先輩が
頭から離れなくなってしまった。自分とは正反対だったのだ。
美しい瞳を持つその先輩に強力に惹かれてしまった。
憧れに近い感情だった。とても魅力を感じたのだ。
しかも、たった二歳ほどしか変わらないその先輩が、かなり大人に見えた。
まるで自分の劣等感を消し去ってくれるような、暗い感覚から解放してくれるようなある種の
救世主にさえ見えたのだ。
それで最終的にその部活に決めてしまった。
その前にも二つほど数日間それぞれ仮入部したのだが、自分の欠点や弱点があらわになって
しまい、仮入部の時点で物凄く苦痛に感じてしまったのだ。
失礼かもしれないが、そこで魅力を感じる人も誰一人いなかった。
しかし、その部に誘ってくれた友達だけは光っていた。
色白だけど肩や体が丈夫でしっかりしている様子が感じられ、笑顔が素敵な子だった。
当然、彼女は異性からも同性からも人気を獲得していた。
ある一人の男子から強烈に愛されていたことも知っている。
そんな彼女を見ては劣等感を抱き、自己に闇を感じてしまったのだ。
1985年はそんな感じで過ぎていった。これも正確な記憶ではないが。

1986年の夏、暑い中どんなに努力しても報われず、ただただ焦りと疲弊の毎日を繰り返し、早く
この暑さが過ぎ去ればいいのにと心の中で想いにふけていった。
でも、本当はその出来事が決して無駄な出来事ではなくむしろ貴重な出来事だったのだと数十年
たってからようやく理解することができたのだが。
このことがなければ、こうしてパソコンに向かって過去の出来事を文章化して打ち込むことも
出来なかったからだ。
その夏、午前中はいつも通り部活に励み、伯母さんの家で昼食をとった後、いつも寝起きしていた
叔父さんの家に移動し、気が付けば布団の上で眠りに落ちていた。
その部屋は、午後になると西日が差し込み、ブラインドを外側に傾けても無風に近いため非常に
蒸し暑く、不快さと肉体疲労のためとても起きていられるものではなかったのだ。
そんな苦痛の中、無意識のうちに引き起こされたのは、金縛りだった。
しかも、三日間立て続けに起きたのだ。想像を絶するほど執拗に。
どの日も真夏の昼下がりに家で疲れきって一人で寝てる時に起こったのだ。
はっきり覚えているのは、三日目の昼下がりだけは強く怒りを発したことだった。
しかし、一日目や二日目の昼下がりは、不安や恐怖に苛まれてどうすることも出来なかったのだ。
それは、明らかに自分の命を今にも奪おうとしている存在だった。それも霊的な存在だ。
何故か分からないが、そこから強烈な憎しみと恨みを感じた。
まるで女の強烈な嫉妬心がさらに膨らんで今にも爆発しそうな様子だったのだ。
何度か全身の力を振り絞って体を揺り動かして抵抗しようと試みたが、縄で全身を締められている
ようで身動きがとれなかった。
自分よりも力の強い霊的な存在が、仰向けになって無防備に寝ていた体にしがみつき、上から圧迫
されどうすることも出来なかったのだ。
そして、最終的には首を絞められた。その瞬間物凄い殺意を感じたのだ。
このままでは命が奪われるかと思い、100%力を込めて追い出そうと決心し怒鳴った。
すると、三日間私を奪おうとした老婆の霊はとうとう私の体から離れ去り消え入ってしまった。
何処から来て何処へいったのかは分からなかった。
それと似たような経験を2016年の10月の夜にも経験していくのだった。

-あとがき-
上記の出来事が後々になって気になりだし、数年後に金縛りについて何度か調べたのですが
本当に納得する答えに辿りつくことはありませんでした。

生きていると、知らず知らずのうちに人を傷つけたり、恨まれたり、嫉妬されたりすることも
あることでしょう。

しかし、そういった感情が人間からではなく、霊から体感したんですよね。それをはっきりと。

人間が住んでいる地上界以外にも天や地獄という霊界が存在してるということが分かった時、納得
できたんですよね。

聖書には、以下のように霊のことがたくさん書かれています。

神様や天使、反逆しているサタンなどが書かれていて、バアル、アシラ、モレクなどの
サタンも幾度か出てきます。

モレクは人身御供の悪魔といわれていて、世界中でも人身御供が存在しており、日本でも神
(サタン)に人柱や石の蔵などを生贄として捧げてきた歴史があるといわれているのです。

2018年 7月13日

Under the wheelをもう一度。


夏の長期休暇中に手に取った本、それは「車輪の下」だった。
そして今年2018年の1月、再び手に取ると当時見えなかったことが見えるようになった。
主人公のハンスは、最後自死してしまう。日本の著名作家の文脈と同様の結末だった。
ハンスとハイルナーの「ゲイ」に似た関係が、夏目漱石の「こころ」のKと酷似している。
その後自殺。Kというイニシャルもとても意味深だ。
夏目漱石は名前の通り、目と石がフリーメイソンである。千円札の顔がはっきりと浮かんでくる。
また、ヘルマン・ヘッセの「デミアン」は秘密結社のことが書かれていると言われている。
「車輪の下」の登場人物が不慮の死を遂げ自殺に追い込まれる点も、村上春樹の作風を感じさせた。
実は1989年、村上春樹の「ノルウェイの森」を友人から進められ借りたことがある。
その友人の家にいくとそこはなんとお寺だった。お寺の娘だったのだ。
宗派は違ったが、村上春樹の祖先も「光明寺」というお寺を運営している。
そして「ノルウェイの森」は、異性の愛だったがやはり二人自殺しているのだ。
クリスマスカラーの装丁からも「ドルイド」を連想した。
「車輪の下」のハンスも最初のころは、神様の存在や魂のゆくえや悪魔のことを考えていた。
しかし、マウルブロンの神学校の試験合格に向けて勉学に励むうちに、その良心が失われていく。
マウルブロンの神学校を調べると、やはり「ドルイド」だった。イエス様の磔の像が、飾られていたからだ。
後にハンスは、新約聖書を牧師から習うが、次第に誇り、焦り、自尊心が増し加わっていった。
しかし、今新共同訳の新約聖書をめくってみると、そこには祈り、愛、癒しのことが書かれている。
読んだ時、自分ではなくイエス様を誇りに思い、焦りや自尊心を感じることはなかったのだ。
そこに牧師の教えと聖書の聖句に矛盾を感じた。
牧師は復活を信じていなかった。ハンスの為に祈ることもしていなかった。
聖書批判ばかりだったのだ。神様の愛よりもラテン語やギリシャ語を熱心に教えていたのだ。
日本の詰め込み教育と同様だ。牧師とハンスからは、むしろサタンの思想を強く感じてしまうのだった。
ヘルマン・ヘッセの祖国のドイツと日本は、離れているが実はとても密接な関係だ。
実は幼い頃何故か「ゲルマン」や「ゲシュタポ」という言語を耳にしていた。
現代もマスコミがヒトラーをテーマにしている度に不思議だった。
実際、ドイツパンの店も見かけるようになった。そこで扱ってるライ麦パンは、砂糖やバターや卵を使用していない。ヴィーガン向けだ。
ヴィーガンやベジタリアンは有名人、イルミナティに多い。
伝説のスター、リヴァー・フェニックスもヴィーガンだった。
彼の名前は、ヘルマン・ヘッセの「シッダールタ」の川にちなんで名付けられたのだ。
フェニックスも悪魔崇拝に繋がり、親もカルトの活動家で彼はそこで苦しんでいた。
話を戻して、そんなハンスも休暇の時だけは癒されていた。自然に癒されていたのだ。
しかし、それも続かなかった。
靴屋のフライクだけは、ハンスの為に祈っていた。試験の当日、祈っていたのだ。
普段から牧師の所にいくハンスを見ては、ため息をついていた。
おそらく牧師は「聖書は偽物で嘘を書いている」というだろうとハンスに伝えていたのだ。
「聖書は人間が書いたもの」とか、「聖霊を感じない」といったら私の所にきなさいと。
「新約聖書を読んだあかつきには、神様を信じなくなる」とも警告。本当にそうなってしまった。
自殺願望まで生じてしまったのだから。
神学校で一緒だったヒンディンガーも、池でおぼれ死んでしまう。
結局「車輪の下」でも二人の命が奪われてしまったのだ。

終わりに…。

この世の全てのものは、神様が創られましたが、神様に反逆するサタンや牧師などが聖書をねじ曲げ、人々を堕落させ破壊してきました。

人間がいかに甘い言葉や心をくすぐる言葉を追い求めているということ、神様の愛ゆえの厳しい御言葉を遠ざけてきた歴史を感じます。

でも、本当の愛は神様しか持っていません。たとえ異性愛、家族愛、友人愛を求め掴んでも満たされないのです。

最初は新鮮で楽しめても、色あせて長くは続かない。むしろ、苦痛にすら感じてしまう。

人間は愛が欠落してるし、相手が本当に守ってくれるわけでもない。傷つけあうことも多く虚しいのです。

神様は…一言ではいえないけど、強くてかっこよくて力や希望を与えてくださるんですよね。

2018年 7月 4日

マスコミ離れと夏の憂鬱。

今まで夢中になっていたマスコミなどの情報機関とは、一体何だったのだろうと思い返してみました。

保育園児の頃や小学生時代は、夕方放映していたTVアニメを見て苦しめられてる少女や対象を目にしては、よく涙を流していたんですよね。

みなしごとか、母親がいないアニメを見ては悲しみ、暗い気分に浸り続けていました。

主人公が幸せを感じていると、とにかく悪人が現れ邪魔され争いが始まるという図式に触発されることも少なくなかったです。

そして、改めて考えてみるとあの時は将来のことをアニメを通して先読みしてたんだなとも感じられました。

また、シンデレラという絵本を親に買って貰い、将来王子様に出会って素敵なドレスを着てそんな人と結婚できたらなと甘い幻想を抱いたりして。洗脳されていたんですよね。

でも、やっぱり意地悪な人が出てきて嫌な気分に陥ってしまいました。不幸になるのが当たり前で喜びがどんどん消え失せてしまうのは、悲しかったです。

ああ自分は、絵本やTVアニメの主人公と何ら変わらなかったんだなと。

その後は、漫才やお笑いブームにつられ、学校にいっては友達の前で物まねをしては笑いをとっていたんです。引っ越しをする以前までは。

しかし、引っ越しをしてからは、全く状況が変わりました。

引っ越し後は、笑いをとれるどころか、もうこんなことしたくないなと感じるようになったんですよね。

それからは、TVアニメも見なくなり、時代劇を少し見たり、歌番組やFMラジオのカウントダウンなどに流れていきました。

そういう陰湿で暗いのを目にすることから次第に離れ、中学校時代は音楽に魅了され、音楽を通じて友達と仲良くなっていくことも増えていきました。

ただ夏休み中だけは、とても憂鬱でした。日本の蒸し暑さが苦手だったんです。その時は、何でそんなに憂鬱なのか分からなかったんですよね。

例えば水泳のクラブでは、特訓をし嫌々やっていたので最終的には大会にも出ず、好きで入った部活動も暑い中、水も一滴も飲めずに、鼻血をだし苦しみを感じていました。

でも、夏の憂鬱な気分が単にクラブや部活動中の苦痛や気候的なものから引き起こされていただけではなかったんだと今は思えるんですよね。

この世には霊界というものが存在していて、神様やサタンが実際に存在していて、サタンや悪霊から悪影響を多大に受けていたからだったんだと。今は思えるんです。

2018年 6月 4日

心が苦しい時に祈り続ける。

以前、二人の人に苦しめられ、相手に訴えてもどうすることも出来ず、その事について神様に祈っていた時期がありました。

関連 屈辱さえ吹き飛ばしてしまう

その後、それとはまた別で周囲から苦しめられることが度々あり、その事は以前よりももっと長い間祈り続けていたことがありました。

ある時、周囲がバタバタし始め、何かあったのかな?どうしたんだろうと感じ、そんな矢先、そのうちの一人の人が離れていくことがありました。

この問題については、無理をして自分から何かアクションを起こさない限り解決できないだろうなとずっと思っていたんです。

しかし、他の人からも苦痛を受けていたので、完全にはすっきりせず心のうちは、モヤモヤしてたままでした。

その三か月後、皆が離れて行きました。すると本当に平安だと感じるようになったんです。心の状態が以前とは全く違いました。

もちろん、全ての問題が解決したというのではなく、今も気になることは抱えていますし、これからも色々出てくるとは思っています。

それでも、このように人にはいいづらく、人からは見えにくいことも神様に祈りを捧げ、心の内を明かせることをありがたく感じました。

また、断食をした後に食事をとり飲み物を飲んだ時、やっぱり神様が与えてくださる食材や食べ物は美味しいし、ありがたいと感謝に変わることが増えていきました。

祈りも最初のころは、自分の祈りばかりでしたが、大きな祈りこそ大切なのかと感じ、この世界が神様の愛の世界に変わっていくよう祈っています。

今は分からないことでも、見えない神様に祈りを捧げることは、壮大でロマンあふれる時間を過ごしていたんだと後になって気づくのかもしれないと感じました。

2018年 5月25日

ある道でみた光景。

12月に入り、ぐんと肌寒さが身に染みた頃、太陽の温かさや有りがたさを痛いほど感じる事がありました。その暖かな光が、とても心地よかったんですよね。

夜になって冬空に浮かんだ満月を見た時、そこからはっきりとした輝きや存在感を感じ、ああ綺麗だなと感動しました。

太陽や月、大空に囲まれて生きていることがありがたく嬉しく思えてきました。

あなたは、包容力があるタイプですねといった表現を人に対していうことがありますが、神様ほど包容力がある存在は、他にないのではと感じています。

包容力という言葉自体、とても安心感を抱きます。本当の愛とは、厳しいけれども包み込んで下さるものかなと思えてきたんですよね。

人間の包容力とは、比べ物にならないほど偉大なレベルなのではと感じられました。

先日、ある道にさしかかった時、三種類の鳥に出会いました。

その中で一番小さい鳥だったのが、すずめでした。こじんまりとしていて、丸味ががった姿でトントン飛び跳ねては、ちゅんちゅん鳴いていました。

中ぐらいの鳥もいました。そして、一番大きい鳥がカラスでした。どっしりと構えていて、カラスだけは逃げる様子はありませんでした。

同じ鳥でもこんなにも性質が違って、姿かたちや色合いが違うのだなと感じました。これは、人間も同じなんだなと。皆それぞれ違うんですよね。

それぞれ個性や才能があって、それぞれ違いがあって存在しているのだと感じました。

周囲を見渡すと数え切れない万物に囲まれ、それらを創造してくださった神様に感謝したいと感じました。

2017年12月05日19:00

目の前にあるものを変えてみる。

先日、身近なものに目が行き届いていなかったことに気付き、買い替えたいと強く切望する出来事がありました。

それは、毎日使っていたマグカップでした。ディズニーのデザインでした。「星に願いを」という歌詞を読むとその本質が伝わってきます。

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同じく時計もでした。それらのものをシンプルな物に変えてみたいと思えたんですよね。

今まで囲まれていたあらゆる物は、色もデザインもにぎやかだけど雑然としていたのだと感じました。カラフルなもの、柄物、キャラクターに囲まれていたんですよね。

生活に追われ、家事が苦痛となり汚れにも鈍感になっていき、自然と掃除も怠り食生活も乱れていっていました。

そんな中、神様に出会い賛美歌に出会い、人間にとって害になるものを避け、良い考えを取り入れるようになれたことはありがたいことでした。

家事を嫌々やるのではなく、やった後に心からすっきり出来て、結果的にやって良かったと思えたんですよね。

祝祭の日にレストランで見た白く輝く食器が、ふと頭に浮かんできて自分もあんな風に清潔な心の状態になりたいと憧れの思いを抱きました。

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真っ白なお皿に、色とりどりの食材が並んでいたのですが、お皿も食材も互いに引きたてられていたのを思い出したんですよね。それが、本来の世界だったのかと。

実際、白い食器はケーキ皿しか持っていなかったんですよね。今回白いマグカップが欲しくなり、お店で物色してたのですが、底のほこりが気になって断念しました。

その代わりに白に近いベージュ色で、周り全体を削っている型のマグカップを見つけ購入しました。

その次の店でも、白のマグカップを見つけましたが、やはり底の汚れが気になりました。これは、自分の心の状態を表しているのだと思えました。もっと心を清めていきたいと。

賛美歌は本当に素晴らしいです。理由が分からずに辛い時、苦しい時は、賛美歌や聖書に触れてみて下さい。

2017年11月23日18:00

あの日印象に残った世界。

その日の午前中は、予想していたよりも曇り空で冷たい空気を感じたので、上着を薄手のものにするか厚手のものにするか迷っていました。

こういう時、心の状態は隠せないと感じました。マタイの福音書に書かれている思い悩むなという聖句を思い出しました。

普段と違う服装や靴を身にまとい、出発しました。曇が広がった空から次第に太陽の光が差し込んできました。徐々に輝きが増し加わっていき、強い太陽光線を体に感じ驚きました。

澄んだ青空と11月とは思えないほどのダイナミックな太陽の光を浴び、その日は神様とのお祝いの日だったのでもしかして熱い熱情の神様の感覚を感じていたのかなとも思えました。

青空や雲や太陽から物凄い存在感を感じました。空ってこんなにパワフルで壮大で美しかったのだと。なんて綺麗なんだろうと感動しました。

目に広がる世界が、いつも一層カラフルに感じました。ある道から庭先にかけて、白い蝶が追いかけっこしているのを見かけ、その様子を見ては涙を落としました。

白い蝶をとても愛おしく感じたんですよね。以前、春先のキャベツ畑で同じような光景を何度か見たことありましたが、そういう感情はありませんでした。

気が付けば、その場から動けなくなっていました。もし、また同じ場所にいったとしてもそんな感動は起こらないのではないかと思えてきました。

聖書を感じさせるお店でランチをいただきました。建物や内装も明るく、食事をしている人たちも乱れた感じもなく、木漏れ日から指す光と店内の温かさが心地よかったです。

その後は、その界隈を散策し樹木の葉の様々な色の違いや地面の白さ、黄味や赤味ががった落ち葉を見ては、魅了されていきました。

色とりどりの花やコスモスにも出会い、神様が創造してくださった沢山の美しいものをありがたく感じました。

薄手のコートを羽織っていた夕方の帰り道、北風の強風に吹かれ寒さと神様の威力を感じ、自分の小ささを痛いほど感じ、賛美歌にすがりたくなり何曲も口ずさんでいました。

神様RAPTさん賛美歌がなくてはならない存在であり、出逢えてよかった。素晴らしいと感じました。

2017年11月13日19:00

美しいものに包まれる。

最近、景色や自然について見入ってしまうことが増えていきました。

それまでは、作られた映画や芸術や有名人を見ては魅了されていることが多かったんですよね。

神様が存在していて全てを創造して下さっていたからだと理解した時、目に入ってくる景色が別世界に感じました。

どうしてこんなにも美しいのだろうと感動しています。そしてそれらに包まれて生きている自体、素晴らしいと思えました。

でも、世の中に溢れる情報やメディアの流す情報に触れると不安感が増し、頭が混乱していくんですよね。全く逆でした。

調べるとサタンの画像や数字にぶつかり、知らず知らずそれが強いものなのだと洗脳されていった気がします。ずっと間違っていたんですよね、考え方が。

この時代に神様が本当にいらっしゃって、私たちを愛してくださっていたのだと知れた今、感謝しています。

この世界には、沢山の動物や植物や食物が数え切れないほど存在しており、きっとこれには深い意味があるのかも知れないと思えたんですよね。

人間も同じで皆それぞれ違った性質で生まれてきて、名前も親も環境も違って今まで生きてこれたのだなと感じました。

世の中のシステムは、個性をつぶすような流れでこれはとても悲しいことだと思えました。人々が苦しむんですよね。

違うものに触れた時、やはり心が苦しいです。苦しいから求めて生きていると、きっと出会えるのだと感じ、感謝に変わりました。

2017年11月06日19:00

歌や音楽が苦痛を拭い去る。

一時期、掃除をしながら健康になりたいと思い、熱心に掃除をしていたことがありました。

その時、断捨離なども流行っていて洋服などを買った時、買った分だけすぐに捨てるように心がけていました。

不要なものが溢れていて、必要に応じて捨てることで部屋もすっきりとし、整理整頓することで物も失くさずに済むのでいいこともありましたね。

でも、料理は違いました。ピザを焼いたりパンを焼いたりすることは好きでしたが、毎日作らなければいけない料理は、苦痛そのものだったんですよね。

最近、健康のためにも自炊することが大切だということに気づき、野菜中心に調理することを心がけるようにしました。

野菜の皮むき、カット、調理、洗い物などを含めると結構な時間を要するのですが、それがあまり苦痛に感じなくなりました。

以前は、玉ねぎをみじん切りにすると目がしみるなど野菜の下準備に嫌な思いを抱くことが多かったんです。

でも、RAPTさんのブログで配信される賛美歌を口ずさんだり、頭の中で思い出しながらその作業をすると、苦痛を感じることがなくなったんですよね。

本当に神様の働きは凄いと感じています。苦痛や苦手なことを拭い去って下さり、大切なことだと気が付かせてもらえたのは、ありがたかったです。

以前は、通勤や移動時に必ず音楽を聴いていたんですが、神様に出会い最近の賛美歌に出会ってからは既存の音楽を聞かなくなってしまいました。

苦手だった調理や洗い物も賛美歌を共にすると楽しいし、はかどるということに気づけたのは嬉しかったです。

2017年10月25日17:00